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大会に出席した安倍首相の発言も、「日ロが相互に受け入れ可能な解決策を見出すための共同作業を進める」「領土問題を解決し、平和条約を締結すべく交渉を進める」といった前向きなものでした。
「ついに日本とロシアが平和条約締結に向けて動き出すのか!?」という期待感を感じる一方で、「北方四島の返還は諦めたの?」という不満を覚えた方も日本人も多いのではないでしょうか。
そこで今回は、日本側が配慮したと思われる“北方領土問題におけるロシア側の主張”について、ポイントを絞って解説したいと思います。
※ちなみに、この2月7日という日付は、1855年に日本とロシア(当時のロシア帝国)の間に結ばれた「日通好条約」に由来しています。
そもそも、北方領土問題が起こったきっかけは、第二次世界大戦の終戦間際にロシア(当時のソ連)が取った行動が元になっています。
時系列を追って見てみましょう。
1945年8月6日、日本はアメリカから原子爆弾を広島に落とされ、甚大な被害を受けました。
その直後の8月8日、これまで中立の立場を保っていたソ連が態度をひるがえし、連合国側(アメリカ・イギリスなど)側の味方に付いて日本に対して攻撃を開始したのです。
史上最悪の兵器を使われた上に、大国ソ連まで敵にまわったことで、日本は終戦を決意し、8月14日に「ポツダム宣言」を受諾、15日には有名な玉音放送(天皇による終戦宣言)が流れました。
それにも関わらず、ソ連は8月15日以降も、満州や朝鮮半島、樺太(サハリン)での戦闘を継続し、同時に千島列島(クリル諸島)への攻撃も開始したのです。
その後、ソ連は8月18日~9月1日にかけて千島列島の島々を北部から制圧していき、一番南の国後島までを制圧、残った歯舞諸島は9月3日~5日にかけて制圧したと言われています。
これは、日本からすれば「終戦後も侵略を続けるなんて、まるで火事場泥棒じゃないか!」と言いたくなるような展開ですが、実はソ連側からするとそうとも言い切れないのです。
なぜなら、日本が正式に敗戦を認め「降伏文書」に調印をしたのは9月2日、有名なミズーリ号の調印式でのことなので、ソ連からすれば「9月1日までは戦争は終わってなかった」ということになります。
日本人的には8月15日が終戦日ですが、ソ連的、いや国際的に見れば9月2日が終戦記念日だったのです。
この意識の違いが北方領土問題を長引かせる原因の1つとなっています。
ただし、3~4日(5日とする説もある)に掛けて、ソ連軍がその場の勢いで歯舞諸島を制圧したことに関しては、違法な侵略とみていいでしょう。
終戦間際になってソ連が日本に牙をむいた背景について詳しくみていきます。
元々日本は、1938年から始めた日中戦争のさなか、アメリカやイギリスとの関係が悪化していることを懸念し、ソ連を味方につけるために「日ソ中立条約」を結んでいました。
1941年にアメリカ、イギリスに対して宣戦布告した後も、まさかソ連が「中立条約」を破棄して参戦してくるとは思っていなかったのです。
最初のうちは快進撃を続けていた日本軍も、1943年の夏ごろには風向きが悪くなりはじめ、戦線が後退し始めました。
一方、ソ連は徐々にドイツ戦に勝てるようになってきていました。
1943年10月にはアメリカ、イギリス、ソ連の3ヵ国による外相会談が行われ、アメリカはソ連に対し「クリル諸島(千島列島)の引き渡し」をチラつかせながら、対日参戦を促します。
これに対しソ連の外相は、「連合国側(アメリカ・イギリスなど)がドイツのヒットラーをやっつけてくれたら、対日参戦するよ!」という趣旨のことを語ったそうです。
そして、1945年2月11日、ついにアメリカ、イギリス、ソ連の3ヵ国が参加した首脳会談(ヤルタ会談)が行われ、これまで口約束だった「ソ連の対日参戦」「クリル諸島(千島列島)の引き渡し」が「秘密協定」として正式に調印されました。
日本が知らないところで、ソ連はクリル諸島(千島列島)をゲットするために、連合国側の味方についてしまっていたのです。
日本が戦局を見誤り、いつまでもソ連が中立でいてくれると思い込んでいたのも悪かったのかもしれません。
1つ目の理由としては、先ほども述べましたが「ソ連的にはまだ8月15日には「終戦」していなかったから」です。
実際、8月14日の時点では、ソ連軍と日本軍の境である「満州」「朝鮮半島」「樺太」では戦闘の真最中で、連合国側から停戦命令は出されていませんでした。
そして、2つ目はもちろん、「ヤルタ会談での密約があったから」です。
ソ連がいよいよクリル諸島の制圧を始めようとした際、アメリカとソ連の間では、以下のようなやり取りがあったそうです。
そもそもアメリカは、ソ連の社会主義勢力が日本を侵食していくことを恐れていたため、クリル諸島への攻撃開始間際になって「満州とサハリン(樺太)、朝鮮半島保育38度線より北(現北朝鮮)だけを占領しよう」とソ連へ提案しました。
しかしソ連は、「ヤルタ合意はどうなった!?クリル諸島は全域いただきます!なんなら北海道北半分も占領しますけど!?」と突っぱね、アメリカの抵抗を黙殺。
さらにアメリカは「クリル諸島は制圧してもいいけど、クリル諸島にはアメリカ軍の航空基地を作りたいなぁ」と食い下がりましたが、ソ連はそれも全力で拒否、クリル諸島全域の制圧を土壇場で完了させました。
「北海道の北半分がロシアって!?オイオイ(笑)」と、驚かれた方もいるかもしれませんが、それだけ日本は追い込まれていたのです。
日本は、「日本本土(北海道・本州・四国・九州(沖縄は含まない!)以外の諸々の小さい島々の帰属については連合国側にゆだねる」というポツダム宣言を受諾した立場であり、その連合国側には土壇場に参戦したソ連も一応含まれているわけですから、仕方がなかったのかもしれません。

戦争が終わった後は、仲直りをしなければなりません。
第二次世界大戦場合、仲直りのお約束は1951年に締結された「サンフランシスコ平和条約」でしたが、ここにもロシアが北方四島を自国のモノと主張する根拠があります。
サンフランシスコ平和条約第二条には、はっきりと「日本国は、千島列島(クリル諸島)並びに樺太の一部(南部のこと)、これに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄すること」が書かれているのです。
当時、日本の代表として会場にいた吉田首相は、「択捉と国後の二島は『千島南部』であること」「色丹と歯舞諸島は日本の本土である北海道の一部であること」を主張しましたが、そのような文言は条約には盛り込まれませんでした。
国際的には、択捉、国後、色丹の島々はクリル諸島の一部という見解は揺るがず、日本もこの平和条約に調印し、国会でも批准されています。
ここ数十年、日本は「サンフランシスコ条約で破棄した”千島列島”には北方四島は含まない!」「北方四島は日本固有(どこの国にも侵略されたことのない)の領土である」「北方領土問題に関しては、四島返還が絶対!」という考えが主流でした。
しかし、当時の首相ですら択捉、国後を「南千島」と表現し、千島列島の一部であることを認めていたわけですから、これからはロシア側の主張にも耳を傾け、認識を改めていく必要があると感じます。
ソ連は、アメリカが「クリル諸島は四島も含めソ連のモノである」と明言してくれなかったことに反発し、サンフランシスコ平和条約には参加しませんでした。
このままでは戦争状態が集結しないので、1955年、日本とソ連の間で平和条約交渉が開始されます。
そして、幾度となくソ連と日本の間で北方四島に対する駆け引きが繰り返され、まずは平和条約の前段階として、1956年10月、「日ソ共同宣言」が調印されました。
そこには、「日本とソ連の間に平和条約が締結された後には、歯舞諸島及び色丹島を日本側へ引き渡す」と明言されています。
ソ連は、日ソ共同宣言締結後、さっそく色丹島と歯舞諸島から島民を引き上げ、企業も閉鎖させました。
「共同宣言を守ろう」「平和条約を結ぼう」というソ連の姿勢が伺えます。
しかし、その後1960年、日本とアメリカの間で「新日米安保条約」が結ばれたことに反発し、ソ連は島民を戻してしまったのです!
その後、ソ連が崩壊しロシアになった後も日本は何度か北方領土交渉を行ってきましたが、ことごとく決裂。
現在に至っては、北方四島にはロシア人が住み着き、行政施設はもちろん、学校や病院、ジムまであるというわけですから、「今更もう4島まるごと返還なんて無理じゃない?」というのが現実的ではないでしょうか。
ロシアの主張をまとめると、以下の通りです。
ところで、2019年6月、G20サミット首脳会談が大阪で開かれることが決定しています。
日本の安倍首相とロシアのプーチン大統領も参加することでしょう。
おそらくこの二人が参加できる最後の首脳会談になるので、この6月が、日ソ共同宣言にある「2島返還」、つまり「日ソ平和条約締結」へ向けて大きく一歩を踏み出す最終チャンスではないでしょうか。
戦後約70年間平和条約が結ばれていないという異常事態がついに終わるのか、日本とロシア両国民の関心が高まっています。
]]>この新法は、1997年に施行されたアイヌ文化振興法に代わるもので、政府は3月中の成立を目指しているようです。
もし、この法案が国会で可決されれば、アイヌの人々が北海道及びその周辺地域の先住民族であることが、初めて法律に明記されることになります。
この新法は、これまでのアイヌ文化振興法とどう違うのでしょうか。
正式名称をはじめ、立法にいたった経緯や問題点をまとめました。
アイヌ新法を解説するにあたって、アイヌの人々の苦しい歴史に触れないわけにはいきません。
ということで、まずは19世紀以降のアイヌの近代史を以下の年表に簡単にまとめました。
| 19世紀 | |
| 1868年 | 江戸幕府が倒れ、明治政府になる |
| 1869年 | 明治政府により、アイヌの人々が暮らす土地が「北海道」と命名される |
| 1875年 | 樺太・千島交換条約により、800人以上のアイヌが北海道(宗谷)へ強制移住させられる |
| 1876年 | 狩猟用の弓、毒矢が禁止される |
| 1878年 | サケ漁が禁止される |
| 1899年 | 「北海道旧土人保護法」制定 |
| 20世紀 | |
| 1904年 | 日露戦争に駆り出される |
| 1923年 | アイヌの中で語り継がれてきた物語をまとめた「アイヌ神吟謡集」刊行 |
| 1939年 | 第二次世界大戦 |
| 1945年 | 敗戦に伴い、千島、樺太のアイヌは北海道以南に移住 |
| 1946年 | 「北海道アイヌ協会」設立 |
| 1986年 | 中曽根首相が「日本は単一民族国家だ」と発言 |
| 1987年 | 国連総会でアイヌの代表がアイヌ民族問題について発言 |
| 1994年 | アイヌ初の国会議員(萱野茂)誕生 |
| 1997年 | アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律、通称「アイヌ文化振興法」成立 |
| 2007年 | 国連が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択 |
| 2008年 | 国会でアイヌが日本列島北部周辺、とくに北海道に先住していた人々であり、独自の言語や宗教、文化をもつ「先住民族」だと認められる |
| 2018年 | 国連人種差別撤廃条約委員会が日本政府にアイヌ民族の権利を保障するよう勧告 |
| 2019年 | 北海道150周年。アイヌ新法成立か? |
| 2020年 | 東京オリンピックに合わせて「民族共生象徴空間」を開設予定 |
アイヌ語で「アイヌ・モシリ」と呼ばれる北海道及びその周辺地域(千島列島・樺太など)には、かつて「アイヌ」と呼ばれる独自の文化を持つ民族が、自然と共生しながら暮らしていました。
しかし、明治に入ると、アイヌ・モシリは本州からやってきた日本人(和人)によって「北海道」と命名され、国有地となってしまいます。
これを皮切りに、アイヌの人々は生きる糧である狩猟やサケ漁を禁じられた上に、入れ墨や耳飾りなどの風習を取り上げられ、日本語を強要されるという苦しい歴史が始まったのです。
特に約100年に渡って続いた「旧土人保護法」は悪法で、アイヌの人々にわずかな土地(しかも農地に適さない)を与えて強制的に農民化する法律でした。
これにより、農業に慣れないアイヌの人々の生活は困窮し、周囲からは差別的な扱いを受けました。
しかし、このような厳しい状況下でも、伝統文化に誇りをもつアイヌの人々は、先祖代々語り継がれてきた物語を本にまとめたり、アイヌの子どもたちのための学校を作ったりと、奮闘し、大戦後には「アイヌ協会」を立ち上げ、理不尽な制度や差別を撤廃する運動を本格的に始めました。
それでもなかなか成果は出ず、ようやく風向きが変わったのは、1994年に初めてアイヌ出身の国会議員が誕生した時です。
タイミングの良いことに、当時の官房長官が北海道出身でアイヌの民族問題に詳しかったこともあり、「旧土人保護法」改正の機運が一気に高まり、ついに1997年「アイヌ文化振興法」が制定されました。
ところが、このアイヌ文化振興法は、「アイヌの人々は先住民族である」とは明記されておらず、文化保護に偏った内容で、アイヌの人々が奪われた土地や狩猟の権利を奪還するには不十分な内容だったのです。
では、ここまでの流れを踏まえた上で、今回の「アイヌ新法」の話が持ち上がった経緯を見てみましょう。
ここ最近になって「アイヌ新法」成立へ向けた動きが活発になった背景のひとつに、世界的に、先進諸国の中で「先住民族の土地の権利や民族自決権(自己決定権)を認めよう」という人権尊重の気運の高まりがあります。
以前よりアイヌの人々は国際社会に向けて「アイヌの窮状」を訴えていましたが、2018年になり、国連の人種差別撤廃条約委員会が、日本政府に対し「アイヌの人々の土地や狩猟などを含む天然資源の権利を充分に保障するよう改善せよ」と勧告したのです。
2020年には東京オリンピックも開かれることですし、こうした国際社会からの指摘を無視することはできません。
そこで日本政府は、国際社会へ「日本はアイヌの人々の暮らしや伝統文化を守ってますよ♪」とアピールするために、オリンピックまでに法改正を行い、それに合わせてアイヌ文化の復興を目的とする「民族共生象徴空間」という巨大施設まで開設しようとしているわけです。
オリンピックを開くような国が、先住民族の人々に対していまだに差別的な扱いをしていては格好がつきませんからね。
2019年2月に閣議決定された「アイヌ新法」は、1997年に制定された「アイヌ文化振興法」に代わる法律になります。
正式名称は、まだ(案)の段階ではありますが、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(案)」といいます。
これまでの「アイヌ文化振興法」は、アイヌの伝統的な文化を広めることだけに特化した法律であり、困窮する暮らしを改善し、周囲からの差別を撤廃するには不十分なものでした。
その点、今回のアイヌ新法では、例えば以下のような変化が見られます。
・アイヌの人々が、北海道周辺地域における先住民族と初めて法律に明記される
・アイヌ文化で地域振興を行う自治体(全国どこでも!)に交付金が出る
・アイヌ文化を伝承するための国有樹木の伐採やサケの捕獲について特例措置が取られる
過去には一国の総理大臣が「日本は単一民族国家である」と主張したこともありましたが、法律の中で「アイヌの人々は日本北端地域の先住民族である」と明記されることは、大きな前進と言えるかもしれません。
また、アイヌの人々が北海道から全国各地へ散らばってしまったこともあり、全国どこの自治体であってもアイヌ文化の振興を行う自治体に補助金が出るのも画期的です。
現在、県の許可を取らずに川でサケを捕獲しようとするアイヌと警察当局がぶつかることもあるようですが、この法律が施行されると、アイヌの人々を取り巻く環境は良くなるのでしょうか?
今回の「アイヌ新法(案)」に対するアイヌの人々の反応は今一つで、以下のような不満を述べています。
・相変わらず「文化の普及」に力を入れるだけで、実際の生活改善にはつながらない。
・旧土人保護法により奪われた土地や資源といった「権利」が回復するわけではない
・漁業や狩猟に特例措置を設けるといっても、「配慮する」という表現にとどまるため現行から進展がないように感じる
確かに、アイヌ文化保護法の施行以来、アイヌの文化に対する知識や風習が広まり、以前に比べれば偏見も弱まってきてはいますが、だからといってアイヌの人々の苦しい生活状況が改善しているわけではありません。
アイヌの人々の世帯年収は100万円~300万未満の層が最も多く、全体の3~4割を占めており、生活保護率は全国平均の1.4倍にもなります。
伝統的な文化を復興し、次世代へ継承していくことはもちろん大切なことですが、それだけでは食べていけないというのがアイヌの人々の本音なのではないでしょうか。
今回のアイヌ新法について、日本人から見た問題点についても考えてみましょう。
個人的には、まず「全国どの自治体でもアイヌの文化で地域振興活動を行うと交付金が得られる」という点に引っかかりました。
北海道出身でもないのに「私はアイヌです」と偽り、文化普及活動を行うフリをして交付金だけゲットしてしまうような悪い人が出てくるのでは?と考えたからです。
実際、アイヌの大地が「北海道」と命名されて以来150年もたっているわけですから、現代のアイヌは日本人との混血が多く、いかにもアイヌっぽい名前というわけでもありません。
「自身がアイヌである」と名乗るためには、「あなたはアイヌです」と認定してもらう必要がありますが、その判断基準は「祖父母の名前や家系図、周囲からの口コミ、一代限りであれば養子でもよい」等あいまいなもので、判断は各団体にゆだねられています。
極論ですが、アイヌでもなんでもない人が、「アイヌ認定もらったから川でサケ取り放題だぜイエーイ!」みたいなことにならないかが気になりました。
新法が成立した場合は、全国のどの自治体も、アイヌ認定やアイヌ文化の地域振興の内容については厳しく審査していかなくてはならないでしょう。
また、新法に合わせて2020年に開設予定の「民族共生象徴空間」についても疑問を感じます。
広大な土地に巨額の資金を投じてアイヌの文化やくらしを再現するものの、札幌から1時間も掛かるような所に年間100万人(目標)もの人が訪れるでしょうか(笑)
アイヌ文化に触れたければ、今ならYoutubeなどで手軽にアイヌの物語や歌が聞けますし、アイヌ文化を題材にした「ゴールデンカムイ」という漫画を読む方が楽です。
この巨大ハコモノ施設に関しては、国際社会へいい顔をしたかっただけのように見えてなりません。
旧土人保護法が廃止され、アイヌ文化振興法が成立して約20年。
国際社会から「アイヌの民族の状況を改善すべし!」との指摘を受け、2019年春、「アイヌ新法」が成立しようとしています。
その特徴として、「アイヌの人々が北海道周辺地域における先住民族である」と明記される点は大きな前進ですが、アイヌの人々からは「相変わらず文化保護に偏重している!」という不満もあるようです。
現在アイヌの人々の生活が苦しいのは、これまでの日本人による差別的な扱いが大きいと思います。
政府はその点をよく反省し、新法の正式名称(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律)にある通り、アイヌの人々の土地や狩猟などの権利復活に対しても、より具体的につっこんだ内容の法改正にしてほしいものです。
国際社会にアピールするための形だけの法律にならぬよう、また、施行後も不正な交付金受給などが行われぬよう注意して見ていく必要があるでしょう。
]]>
ちなみに、この2島返還の「2島」とは色丹島と歯舞諸島のことですが、この2つの面積は、北方四島全体のわずか7%しかありません。
このわずか7%の小さな島々がロシア側から日本へ返還(ロシア側から見ると引き渡し)されることで、日本にはどのようなメリットがあるのでしょうか。
そもそもの前提として、日本とロシアの間では戦後70年以上たった今でも、「平和条約」が結ばれていないことを思い出してください。
アメリカやイギリスなどの連合国側とは、1951年に「サンフランシスコ平和条約」を締結し、「戦後の仲直り」は済んでいますが、ロシア(当時のソ連)は条約に参加していません。
ロシアのようにこの条約に参加しなかった国として、中国やインドなどがありますが、それらとはちゃんと後で講和条約を結んでいるにも関わらず、ロシアとはまだなのです。
ただ、日本と北朝鮮のように国交を断絶しているわけではありません。
サンフランシスコ条約から遅れること5年、1956年には日ソ共同宣言を発表し、これからも平和条約締結に向け交渉を続けていくことを約束し、一応国交は回復しています。
その後も、日本とロシアは、日ソ共同声明(1991)、東京宣言(1993)、クラスノヤルスク合意(1997)、川奈合意(1998)というように、何度も平和交渉を重ねてきました。
2001年の交渉では初めてプーチン大統領が登場し、1956年の「日ソ共同宣言」が、これまでの交渉プロセスの出発点であり、法的な基本の文書であることを確認しました。
そして、2014年に誕生した安倍内閣は歴代2位の長期政権となっており、同様にロシアで長期政権化しているプーチン大統領と安倍首相の首脳会談は25回目に達しています。
まさに、「日露間で平和条約を締結し、日ソ共同宣言に基づいて2島返還(引き渡し)を行うのはいつ!?」「今でしょ!」と言えるのではないでしょうか。
北海道産のお魚って美味しいですよね。
当然、北方四島周辺の水域も水産資源に大変恵まれています。
日露間には平和条約は結ばれていませんが、日本は、1998年以降に結ばれた「漁業に関する政府間協定」や「民間協定」に基づき、国後島周辺ではスケトウダラやホッケの漁業、色丹島や歯舞諸島周辺ではタコやコンブの養殖が行っています。
ただし、これは北方四島を実効支配しているロシアに対して、漁獲量を毎年交渉してやっと確保している漁業であって、大変肩身の狭い状態なのです。
つまり、2島だけでも日本の領土として認めてもらえるのであれば、これまでのように「漁獲量は2000トンまで!」など制限を設けられることもなくなり、漁獲量のアップが見込めるのです。
また、現在ある色丹島の水産加工場では、ロシア向けだけでなく、日本向けの水産加工物も製造できるようになることも期待されます。
最近値上がりしているタコがたくさん採れれば、たこ焼きにもリッチにタコが入れられるかもしれません。
あまり知られていませんが、日本は毎年1139億㎥もの天然ガスを輸入しており、その量はなんと、世界第1位です。
日露間で平和条約が締結されると、これまで以上に日露間の経済協力が発展するため、こうした豊かな地下資源を安定的に確保できることが予想されます。
例えば、北方四島の北西には樺太島(現在ロシアサハリン州)がありますが、その北東部沿岸で採掘できる天然ガスをよりスムーズに日本に輸入することができるようになるかもしれないのです。
ロシアは2000年代初頭から、日本企業の協力を得ながら樺太島北東部にロシア初の「天然ガス液化プラント」を建設してきましたが、2009年以降ようやく液化天然ガスをタンカーで輸出できるようになりました。
現在、天然ガスを液化するためにはプラント建設費用も含め膨大な費用が掛かっていますが、もし日本とロシアが今より友好的な関係になれば、サハリンと北海道をつなぐパイプラインを建設し、天然ガスを液化することなくそのまま輸入することも夢ではないのです。

プーチン大統領と安倍首相との交渉が重ねられる中、日本とロシアの貿易は活発化しており、2018年度だけでも貿易取引高は18%増加、その額は200億ドルに達しました。
また、先ほど挙げた樺太島での天然ガスプラントにおける新たなトレイン建設においても、既に三井や三菱といった日本企業が名乗りを上げており、日露間の経済協力が約束されています。
さらに、2019年1月にモスクワで行われた日露首脳会談の記者会見で、プーチン大統領は「今後はさらなる野心的なプロジェクトを計画していく」「今後数年間で、日本とロシアの貿易額1.5倍増を目指す」などと述べました。
逆に言うと、「平和条約を締結したければ(つまり、2島を返還してほしければ)、日本はロシアにしっかりと経済協力してね」ということなのかもしれません。
さらに、もう1つ別の角度から2島返還のメリットを考えると、「日米関係を見直すきっかけになる」という点が挙げられます。
今後の平和条約締結交渉において、ロシア側が2島を引き渡す条件として「アメリカ軍基地を置かないこと」を提示してくることが確実視されています。
なぜなら、仮に2島が返還され「日本の領土」と認められた場合、現在の新安保条約や日米地位協定上では、アメリカ軍が色丹島へ空軍基地を建設することが可能だからです。
沖縄の辺野古基地建設すら反対できない日本が、アメリカに対して「返還された2島にはアメリカ軍を置くことはできません」と主張できるのでしょうか?
思い返せば、終戦時の土壇場にロシア(当時ソ連)が千島列島(クリル諸島)を制圧していった最中にも、アメリカ側の「航空基地を置きたい」という要望をソ連が拒否するやりとりがありました。
実際はアメリカのアラスカ州に既に基地があるので、それほど北方四島の基地建設にこだわる必要はないと思われますが、単純に「ロシアと日本が仲良くしたら面白くない!」という利由でこの問題に干渉してくる可能性は十分考えられます。
この書くと、アメリカの基地問題は2島返還のための大きな壁となりそうですが、ラッキーな一面もあります。
実は、現在アメリカ行政のトップを務めるトランプ大統領は、「ロシアと仲良くするのも悪くない」などと述べており、ロシアとの衝突を避ける傾向にあるのです。
このアメリカの様子を見るにつけても、やはり「2島返還を訴えるなら今しかチャンスはない!」と感じてしまいます。
北方領土問題で2島が返還されると、日本としては以下のようなメリットが考えられます。
ただし、何よりも問題なのは、この領土問題の解決が長引きすぎていることです。
終戦から70年以上たった現在、色丹島や歯舞諸島には長らくロシア人が住み続けているため、今さら「2島を日本に返還するから出て行ってね」などと簡単に言うことはできません。
「平和条約を締結して2島返還してもらったからそれで終わり」ではなく、いずれは残りの2島や樺太島においても、両国民が気軽に墓参りや観光に来られるような、日本人とロシア人の共生社会を模索し続けていくことが大切なのではないでしょうか。
]]>北海道の東の端、根室沖にある択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)諸島のことですよね。
日本はロシアに対し、これらの島の領有権を半世紀に渡って主張してきましたが、未だ解決には至っていません。
しかし、2018年11月、安倍首相が日露首脳会談後に「日露間の平和条約交渉を加速してく」「領土問題は私とプーチン大統領の手で終止符を打つ」などと述べたことで、今、領土問題の行方に注目が集まっています。
そこで今回は、上記の島々が北方領土と呼ばれるようになった歴史を、地図を用いながら解説していきたいと思います。
日本が主張する「北方領土(北方四島とも呼ぶ)」は、国際的な地図上ではクリル諸島(千島列島)の南端に位置する4つの島々のことを指します。

日本の小中学生が用いる帝国書院の地図帳では、以下の図のように択捉島とウルップ島の間に国境のラインが引かれています。
日本製のあらゆる地図がこのようになっているため、日本人の多くが「北方四島は北海道の一部であり、日本の領土である」と感じるのは自然なことかもしれません。
ところが、世界的に有名なアメリカ製の百科事典やイギリスのオックスホード大学出版の地図帳では、国後島の西側に国境ラインが引かれているのです。

なぜ2種類の地図が存在するのでしょうか。
そこで、1つ目の地図のように、日本が「北方四島は日本の領土だ」と主張するようになった歴史を振り返ってみましょう。
ここ150年ほどの間で、千島列島(国際的にはクリル諸島と呼ぶ)における日本とロシアの国境ラインは何度も入れ替わってきました。
その変遷を、年代や条約と共に振り返ってみましょう。

| 年代 | 概要 | 国境(樺太) | 国境(千島列島) |
| 18世紀前半 | クリル諸島 | あいまい | あいまい |
| 18世紀後半 | 蝦夷地と呼ばれる | ↑ | ↑ |
| 1789年 | クナシリ・メナシの蜂起が勃発 | ↑ | ↑ |
| 1855年 | 国境ラインが明確になった(下田条約) | あいまい | ウルップ島と択捉島の間に国境 |
| 1869年 | 蝦夷地から千島国へ | ↑ | ↑ |
| 1875年 | サンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約) | ロシア | 全部が日本 |
| 1905年 | 日露戦争で樺太を日本が侵略樺太が日本の領土に | 日本 | 全部が日本 |
| 1905年 | ポーツマス条約で樺太の北緯50度線以北をロシアに返還 | 半分半分 | 全部が日本 |
| 1941年 | 太平洋戦争の中で日ソ中立条約 | 半分半分 | 全部が日本 |
| 1945年 | 日ソ中立条約を破棄、ロシアとの戦い負ける、 樺太も千島列島も、ソ連に占領される |
ロシア | ロシア |
| 1951年 | サンフランシスコ平和条約 千島列島・南樺太の権利、権限及び請求権の放棄 |
ロシア | ロシア |
鎖国のベールに包まれた日本に対し、ヨーロッパ諸国は、カムチャッカ半島から北海道まで含めた辺りをざっくりと「クリル諸島」と呼んでいました。
当時の日本人(和人)は、アイヌ民族が住む北の大地を「異民族の土地」という意味の「蝦夷地」と呼び、どんどんその勢力範囲を拡大していきます。
1789年には、現在の北方領土の辺りを生活の拠点としていたアイヌの人々が、松前藩による圧政に苦しめられたことで、蜂起する事件(クナシリ・メナシの蜂起)も起こりました。
この頃になると、ロシアと日本による千島列島への進出が進んだこともあり、ヨーロッパ諸国による「クリル諸島」の認識は、カムチャッカ半島より南~国後島までの間の島々のみを指すように変化します。
そして1853年、浦賀にペリーの黒船が現れ開国を迫ったのを見て焦ったロシアは、これまであいまいにしていた千島列島の国境ラインを明確にする条約を結ぶことになります。
それが、以下の下田条約です。

日本とロシアの間で始めて結ばれたこの通好条約によって、千島列島のウルップ島と択捉島の間にはっきりと国境ラインが引かれました。
実際、択捉島付近(クリル諸島南部)に住んでいたアイヌ民族は北海道系アイヌ民族と同族であり、クリル諸島北部に住んでいたアイヌ民族はカムチャッカ半島系のアイヌ民族だったようなので、妥当な線引きだと思われます。
※なお、樺太に関しては、この条約では国境ラインはあいまいなままでした。
しかし、当時のロシアと日本では言葉の壁が大きく、条約の詳細を詰める過程において、オランダ語や漢文まで用いながら何度も翻訳が繰り返されました。
その結果、ロシア側の認識の「択捉島より北にあるその他のクリル諸島(あくまでもカムチャッカ~国後までがクリル諸島という認識)」という原文が、「択捉島より北のクリル諸島」という風に誤訳されてしまったのです。
どうやら、この下田条約が、北方領土問題の一因になっているのかもしれません・・・。
日魯通好条約(1855年)
日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。
出典:外務省HP
日本側は、ついに蝦夷地という名前を北海道に改め、国後島と択捉島を「千島国」とします。
これまで両国が共存していた樺太をロシアの領土とする代わりに、千島国より上の残りのクリル諸島の島々すべてを日本の領土にする条約が結ばれました。
翌年、日本はカムチャッカ半島より南のクリル半島の島々を全てまとめて「千島国」とします。

樺太千島交換条約(1875年)
日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。
出典:外務省HP
ポーツマス条約で樺太の北部がロシア領、南部が日本領になる。
ポーツマス条約(1905年)
日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。
出典:外務省HP
太平洋戦争の中で、利害が一致した日本とロシアの間に「日ソ中立条約」が結ばれる。
ソ連は「日ソ中立条約」を破棄し、対日参戦し、日本は敗戦します。
樺太も千島列島も、ソ連に占領されてしまったのです。
戦争後の処理として、領土の線引きをするのは通常のことですが、米ソの冷戦の影響で、平和条約の締結がこの時期まで伸びてしまいました。
そのため、このサンフランシスコ平和条約は、日本と戦った連合国との間で締結されました。
この条約の北方領土に関する条文は下記です。
第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)
- 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
となっていますが、この条約を結ぶ際、アメリカ・ロシア・日本の主張が以下のように微妙に異なっていたのです。
※ソ連はこの条約には参加していないにも関わらずこのように強い主張をしていたのは、「1945年2月のヤルタ協定」でソ連の領土をクリル諸島全域と決めていたことを根拠としています。
こうして、千島列島南部の領有権があいまいなまま条約が締結されたことで、日本では「4島返還論」が巻き起こりました。
そして、「北方領土問題」として、今日まで日本とロシアの主張は平行線をたどることになるのです。
日本の主張
サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
出典:外務省HP
こうして歴史を振り返ると、勘違いや思い込みでコトを進めると大変なことになるなあと感じます。
日本は「古くは下田条約の時代から北方四島は我が国の領土だ」と思い込んでいるし、ロシアは「敗戦した日本はサンフランシスコ平和条約でクリル諸島(千島列島)全域を破棄したじゃないか」と参加していないことを棚に上げて主張しているわけです。
結局、戦後70年たった今でも日本とロシアの間では平和条約すら結ばれておらず、それがまたこの問題の難しさを物語っています。
ただ、元々はクリル諸島(千島列島)って日本のものでもロシアのものでもなく、アイヌ民族の人々が暮らす国だったのではないでしょうか。
両国から侵略されチリジリになってしまったアイヌ民族の気持ちにも想いを馳せながら、この問題の決着を、死ぬまでには見てみたいものです。
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