栄養失調に苦しんだ時代
当時、東京には十分な食料がありませんでした。地域によって配給はまちまちでしたが、徹子さんの住む地域の配給は海藻麺(かいそうめん)という食品だったそうです。
ホンダワラってね、海に打ち上げられている茶色の厚いがわがわした、玉がぽろぽろついているような。それを粉にしたやつがなんだか透き通ったにょろにょろした、なんかこんにゃくみたいなもので、そんなかにそのあれ(海藻)が入ってて、カエルの卵みたいなの、そういうのが配給になるんですよね。
その海藻麺を、何の味付けもなく、ただ茹でて食べていたそうです。結果、徹子さんは栄養失調になりました。体中におできができて、爪と爪の間が膿み、夜な夜なズキンズキンと痛んだといいます。
病院も薬もなく、ただ我慢する毎日。その後、疎開先で10日ほど魚を食べたら、体中のおできが治ったそうです。
その時にね、たんぱく質っていうものが人間には絶対必要だっていうことがすごくよく分かりましたね。だからそれ以来、今、アフリカへ行って、栄養失調の子どもたちやなんか見た時にね、どんなたんぱく質でも子どもたちに与えるというのは必要だ、栄養のあるもの、本当にそういうほんのちょっとでもあれば。いちばん怖いのが、脳に栄養がいかないと、脳が成長しないことなんですよね、脳が成長しないと、歩くことも立つこともできない。ものを考えることもできない。ただ地面をはってるだけ。栄養のあるものをあげたい。それはやっぱり自分のそういった体験もあったからだなって思います
やはり、自分の経験がユニセフ活動に繋がっていたんですね。
「私の故郷は青森県三戸郡の諏訪ノ平。そう決めています」
徹子さんは東京生まれの東京育ちで、諏訪ノ平は徹子さんの疎開先です。疎開のきっかけは1945年の東京大空襲だったといいます。
そのとき徹子さんは11歳でした。
その数年前、母の実家がある北海道から帰る汽車で隣に座ったのが、諏訪ノ平で農業を営む沼畑周次郎さん。
「あの木は何の木?」と窓の外を見ていた徹子さんが言うと、沼畑さんが「リンゴの木だよ」と答えます。
「リンゴ好きかい?」「大好き!」「じゃ、送るから」
その後、本当にリンゴが届き、手紙のやりとりから、沼畑さんの息子さんが黒柳家に下宿するまでになりました。疎開先は親戚でも何でもなく、偶然出会った沼畑さんのところだったのです。そこで終戦を迎えることになりました。
駅の前のお店の前にラジオがあって、そこバス停なんですけど、そこでみんなが『なんかきょう放送あるらしい』って言うのでね、そこで聞いてた時に、私はなんだか分かんなかったけど、みんなが『どうも戦争が終わるらしいだべ』っていう話になって。それでそれから一目散に走って私、うちのほうに帰ったんですけど。母はお勤めしてましたから、近所のおじさんのとこ行って『戦争終わるの』って聞いたら『どうも終わるらしい』って聞いて『ああ、じゃあ東京帰れるかな』って思ったんだけど、うちはなんか焼けたらしいって聞いたので、それから父もいないし、帰れないかもしれない、でも戦争が終わってよかったなって、本当によかったと思いました。
徹子さんは大喜びでスキップしながら帰ったそうです。そして戦争が終わってから4~5年後、出征後ずっと音信普通だった父親を新聞で見つけます。
「親と離れ、安否もわからない心細さ。まともな食糧もない空腹感。子どもを不幸にする戦争は二度としてはいけません」
自分の幼い頃と重ね、ユニセフ活動を積極的に行う徹子さん。ユニセフ活動の原動力となっているのは、まさにこの幼い頃の体験なんですね。

まとめ
なぜ徹子さんがユニセフ活動に積極的なのかわかった気がします。世間離れした自由人のイメージが払拭されますね。
つらい気持ちがわかるからこその数々の行動、本当に尊敬します。
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